浜崎洋介氏による『ぼんやりとした不安の近代日本』は、日本人の精神性と近代国家のあり方を照らし合わせながら、その曖昧な「不安」の正体を浮き彫りにする一冊です。
本書の根底には、個人と国家の関係、主体性の欠如、そして戦後民主主義への根源的な問いかけがあります。
本記事では、特に印象的だったポイントを3つの視点から考察していきます。
考察① 「ぼんやりとした不安」はどこから来るのか
日本社会に漂う「不安」は、突発的に生まれたものではありません。
それは、近代国家としての日本が西洋に追いつこうとした明治期から積み重なってきた構造的な問題に由来しています。
本書では、明治以降の「近代化」が、外見的な模倣に偏っていたことが指摘されています。
制度や技術は取り入れたものの、国民の内面や主体的な価値判断の育成には及ばなかった。
この「中身の空虚さ」が、のちに「何となくの不安」や「自信のなさ」といった形で表れてくるのです。
つまり、私たちが感じている漠然とした不安の根底には、「本当に自分で考えて決めているのか」という不確かな感覚があるといえます。
見かけの安定とは裏腹に、内面ではどこか足元が揺らいでいる――それが日本近代の宿痾なのかもしれません。
考察② 主体性の喪失と「空気」への従属
浜崎氏が一貫して問題視しているのは、日本人の「空気」に従う性質です。
これは単なる世間体や同調圧力というレベルにとどまらず、国家の方向性すら左右する深刻な問題です。
戦前の日本では、「空気」によって戦争に突き進んでいきました。
戦後は反動として個人主義が重視されるようになりましたが、そこでも主体的な議論は不在のまま。
「自分の意見を持たない自由」が当たり前になっていったと本書は語ります。
結果として、表面上は自由でも、その実「空気」に支配されている状態は続いている。
現代のSNS社会でも見られるように、誰かが発した強い意見に流される傾向は根強く、主体性の欠如はむしろ加速しているようにさえ思えます。
浜崎氏はこれを「ぼんやりとした不安」の最大の原因として挙げており、日本社会全体が他人の顔色をうかがいながら、自分を見失っていると警鐘を鳴らしています。
考察③ 戦後民主主義への疑問と再考の必要性
戦後日本は、アメリカによって与えられた民主主義の枠組みの中で発展してきました。
しかし浜崎氏は、その民主主義が本当に「自分たちのもの」として根付いているのかを問いかけています。
たとえば「自由」「平和」「権利」といった言葉はよく使われますが、それらの意味を深く考えた経験がある人は多くありません。
ただ「それが正しいものだから」と受け入れてしまう。
それは主体的な思考とは呼べないのです。
本書は、戦後民主主義が「考えることをやめた自由」になっていると指摘します。
つまり、何も決断せず、流れに身を任せることが「リベラル」だと誤解されてきたわけです。
そういった体質のままでは、仮に社会に危機が訪れても、何も選び取ることができない。
民主主義の再構築には、「考え続ける姿勢」が不可欠だというメッセージが強く伝わってきます。
まとめ
『ぼんやりとした不安の近代日本』は、単なる歴史や社会批判にとどまらず、「私たちはどう生きるか」という根源的な問いを投げかけてきます。
日本が抱える不安の正体は、外からの脅威ではなく、自ら考えることを放棄してきた内面の問題にある。
それに気づき、個々が主体性を取り戻していくことこそが、この不安を乗り越える第一歩となるのではないでしょうか。
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